ジャズとの出会い

中学三年生の時にビートルズがデビューし大学四年生の時に解散した私は典型的なビートルズ世代でした。
大学に入学すると友人たちの影響もあり、当時流行していたフォークソングに目が向きました ブラフォー(ブラザースフォー)、キングストン・トリオ等、つきあいのあった女子大の友達と時々コンサートにも行っていました。
成人前の思い出のレコード今から振り返ると、その音楽は自分にとって男女交際の一種の潤滑材のような存在であったと思われます。 しかし、訪れた大きな転換期は大学四年の時でした。
学友の男くさい薄汚れた下宿に遊びに行った時に、自作の真空管アンプ、自作のレコードプレーヤー、自作のスピーカーシステムから流れてきた音楽は衝撃的なものでした。
とめどなく無くあふれ出るテナーサックスのアドリブ、エネルギッシュなエルビン・ジョーンズのドラムス、ジミー・ギャリソンのベース、神経質そうなマッコイ・タイナーのピアノ。 シーツ・オブ・サウンド、ジョン・コルトレーン・カルテットとの出会いでした。

大切にしている2枚のLP

軟派の音楽から硬派の音楽へ、大転換の時でした。
当時名古屋市の矢場町にサンスイ電気のショールームがあり、よくそこに入り浸って無料の音楽を聞いていました。
生涯大切なLPそこで印象的だったのがJBL(当時はジムラン(ジェームス・B・ランシング)と呼んでいました)のシングルコーンスピーカーLE8Tでした、そこでいつかは自分もJBLと思うようになりました。
またバイトして稼いだ少ない小遣いで買ったLPレコードは此処で聞いて感銘を受けた物が多かったです。

その中でとても大事にしているLPは、当時発売されたばかりの「モントゥルー・ジャズフェスティバルのビル・エバンス」と高名なエンジニア『ルディ・バンゲルダー』の録音、ミキシング、カッティングによる「シェリー・マン、2−3−4」です。
輸入盤独特の匂いのする盤でわくわくして聞き入りました。

真空管アンプを自作…機器メンテナンスの大切さを知る

オーディオアンプまた、学友の影響もあり、電子工学科の学生だった自分も真空管アンプを自作し、レコードプレーヤーも自分で組み立て、スピーカーシステムも極力自分で加工できる部分は加工しました。

そういった一連の行為が、物を大事にする、メンテナンスをしっかりして長く使う思想に繋がっていったと理解しています。

収入の大半をLPレコードの購入で費やす

社会人になってからは収入の大半をLPレコードの購入に当てるありさまで、貯金をして将来嫁さんをもらう為に蓄えるという意識は全く有りませんでした、そんな状態なので当然嫁さんのきてはありませんでした。
また当時弟が東京で生活していたので、よく東京のジャズ喫茶や中古レコードあさりに上京しました。

いつしかジャズ喫茶を持ちたい

JBLプロ用スピーカージャズ喫茶のメッカ吉祥寺や新宿、神田等々行きましたが、一番感銘を受けたのは地下鉄東西線の門前仲町にあった「タカノ」というお店でした。 オルトフォンSPUにマッキントッシュの真空管アンプ、そしてアルテックの9844Aというモニタースピーカーでした。
そのスピーカーから出る音は、リード楽器がとても官能的でした、車にたとえれば、イタリア車のDOHCエンジンとか、ホンダのタイプRのVTECエンジンの音とかに通ずる鳥肌の立つような感銘を受けました。
残念ながら今までにこの「タカノ」以上の感銘を受けたサウンドに出会ったことはありません、またこのお店も現在は無く、二度と聞くことが出来ないのがとても悲しいです。

レコードプレーヤーレコードあさりやジャズ喫茶巡りをするうちに、何時かは自分で好きなレコードをかけてくつろげるジャズ喫茶を持ちたいと思うようになりました。
しかし、この業界も世の中が豊かになり、音楽のソースも豊富に入手できるようになって、寂れる一方でした。
そして、いつしかそんな夢も忘れさっていました。

そして、35年来の夢の達成

b'coffee自分で興した事業も軌道にのり、三人の子供たちも全員社会人になった2005年、若いときの夢の実現に向けて全力を注ぎ、翌2006年7月7日この店の開店に漕ぎ着けることができました。

自分の生き様を振り返ってみると、「夢を持つ」ということがいかに大事で有ったかと実感しています。
1か月や1年くらいで実現可能なのは「夢」ではない。
自分の今の実力の数段上のレベルを目標にして、5〜10年程度をかけて実現するたゆまぬ努力が大切と思います。 「夢はかなえられる」が私の座右の銘です。